豊臣国松
京都の豊国廟にある豊臣国松の墓にお参りして来ました。
6月19日(5月23日)は豊臣秀頼の子(秀吉の孫)の国松の命日です。
豊臣国松は、秀頼の側室との間に生まれた男子で、秀頼の正室の千姫(徳川秀忠の娘)をはばかって、生後すぐに若狭京極家(秀頼の伯母である初の嫁ぎ先)に預けられた後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となりました。
しかし、大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、初と共に大坂城に入城し、その時になり、生まれて初めて父である秀頼と面会しました。
そして翌年の大坂夏の陣のおり、国松は秀頼と5月8日に盃を交わし、田中六郎左衛門(京極家侍、傅役、乳母の夫)・乳母と共に城を落ち延びたのでした。
しかし、徳川方の捜索により国松は伏見に潜伏していましたが発見されると、京都所司代の板倉勝重のもとに連行され、5月23日に市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首されてしまいました。
享年8歳でした。
田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れましたが、自ら殉死を志願して同時に処刑されたそうです。
その後、祖母の淀君のいとこでもある松の丸殿が国松を哀れみ,国松を京都寺町の誓願寺中に葬りました。
松の丸殿が、誓願寺再興時の施主であり、晩年は寺内に住んだことから自分の墓も国松の墓と並んで建てさせたそうです。
その後、松の丸殿と国松の墓は豊国廟へと改葬されたのです。
豊国廟にある大小のお墓は、大きなお墓が松の丸殿、小さなお墓が国松となっています。
また、同じく秀頼と側室に生まれた娘である奈阿姫は、女の子であったで千姫に養女として救われて、鎌倉の東慶寺に預けられて出家しました。
天秀尼となり、のちに会津騒動などで弱き女性を守ることに力を尽くし、また若き江戸狩野派の絵師を支えたそうです。
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